鍋島家の旧別荘地を利用して造られた、1万5,000坪の敷地を持つ日本情緒あふれる庭園です。
この地はもともと「十可亭」という名で呼ばれた鍋島家の別荘地でした。
幕末維新に「佐賀の怪物」と呼ばれた鍋島閑叟(なべしまかんそう)こと鍋島直正はこの地を愛し、ここで書を読み思索にふけり、
時にはここから政務を執ったことも有ると言われています。
その死に際してもこの地に埋葬するよう遺言しており、十可苑内ではありませんが歩いて10分ほどの所、龍登園をはさんだ山間の静かな森の中に、直正の墓所があります。
十可亭は鍋島藩主の別荘地でした。
金立山より流れ出る水が小さな滝となり「孫の滝」から家来が水を汲み、その水で姫君がお茶を点てられていたそうです。
古代より金立山には「不老不死」の薬草があるとの言い伝えがあり、そこから流れ出る水で出来たのが「孫の滝」です。
その下に建てられた十可亭ともに由緒ある場所であります。
金立山(金の立つ山)から縁起のよい孫の滝の水にふれて、運気をお上げください。
佐賀藩の佐野常民は、アームストロング砲の鋳造に成功しました。我が国で最初の西洋流の演習は1832年(約190年前)に佐賀で実施され、その後、多くの大砲が製造されました。
佐賀本藩では鋳造技術と砲術の研究が熱心に行われ、西洋砲術は1845年には佐賀藩の砲術として全国に広まりました。
このように、佐賀は日本で最初に大砲を導入し、本格的な西洋流の演習が実施された先進地域でした。
このアームストロング砲は、当時のものを真似て作られたものです。
佐賀藩鍋島は鍋島直茂公によって三十六万石の基礎を固め長子勝茂を以て佐賀藩初代の藩主となる。名君相つぎ代を重ね第十代直正は天保元年若冠十六才にて封を続がれ閑叟の雅号により広く知られ親しまれている。
父祖の代より川上十可亭山房を愛されていた。
名の示すよう春夏秋冬花鳥風月に恵まれ山紫水明にして高台に登れば川上の全景一望の下に集まり不知火の海を通し遠く雲仙を望見す。
景なるかな十可亭時あだかも日本の夜明け前王政復古嘉永三年(一八五〇年)には日本最初の反射炉建設二十四ポンドのカノン砲アームストロング砲の製作西洋医術中にても種痘等多忙繁雑の中此の十可亭を憩の場だけにてはなく英機案出の地とされ温故知新の魁けをなされた。
直正公此の高台にて詩を賦す。
通称もいっさん。
学問運向上の神様として地元の方々に親しまれています。
知恵の神様である文殊菩薩を本尊として祀っており、受験や就職を控えた多くの人々が参拝に訪れています。
また500メートルほど山を上ったところにある乙文殊宮の上宮は、参拝者が合格や就職を願う自分の思いがお堂の中にたくさん書かれており、通称「落書き堂」と呼ばれています。
